「当事者意識を持て」が危険な理由とは?権限のない責任は服従になる
最終更新日:2026.10.05
目次
「当事者意識を持て」が危険な理由とは?権限のない責任は服従になる
「もっと当事者意識を持って仕事をしてほしい」。経営者や管理職なら、一度は部下にそう求めたことがあるのではないでしょうか。
しかし、当事者意識は、言葉で求めれば生まれるものなのでしょうか。
自分では何も決められない。それでも結果が悪ければ「あなたの責任だ」と言われる。そんな環境で求められる当事者意識は、主体性ではなく、単なる服従に変わってしまいます。
本当に社員を当事者にしたいのなら、「責任を持て」と言う前に、決める権限を渡さなければなりません。
この記事では、なぜ「当事者意識を持て」という言葉が組織を弱くするのか、そして社員が本当に当事者として動ける組織には何が必要なのかを考えます。
「当事者意識を持て」という言葉は、なぜ相手に届かないのか
「当事者意識を持ってほしい」と言われた社員が、まず考えるのは、「では、自分は何を決められるのか」ということです。会社の方針は経営陣が決める。予算は上司が決める。仕事の進め方にも細かなルールがある。現場から改善案を出しても、最終的に決めるのは上司です。
それでも結果については、「もっと自分ごととして考えてほしい」「担当者として責任を持ってほしい」と求められます。ここに、当事者意識が機能しない理由があります。
人は、自分で選べるものについては、その結果を自分の責任として引き受けやすくなります。反対に、自分には決める余地がないのに、結果だけを引き受けろと言われれば、主体的に動くよりも、決められたことに従うほうが合理的です。

「自分で決めていい」と言われていないのに、「自分で考えろ」と言われる。「反対してもいい」と言われていないのに、「自分の意見を持て」と言われる。
こうした状態では、社員が本当に当事者になるのは難しいでしょう。むしろ、「当事者意識を持て」という言葉が、上から決められたことを自分の責任として受け入れさせるための言葉になってしまうことがあります。
問題なのは、社員に責任感がないことではありません。責任を求める一方で、その責任を自分で引き受けられるだけの権限を渡しているのかを、まず問うべきなのは、こちらです。
そもそも、当事者意識・オーナーシップとは何を指す言葉なのか
「当事者意識を持ってほしい」と言われても、そもそも当事者意識とは何を指すのでしょうか。
言葉の意味を曖昧にしたまま、「高めよう」「もっと持とう」と言っていても、何を目指しているのか分かりません。
ここではまず、当事者意識と、よく似た意味で使われる「オーナーシップ」という言葉を整理します。そのうえで、オーナーシップという言葉から何が抜け落ちることで、単なる「心構え」の話になったのかを見ていきます。
当事者意識とは、「自分の問題」として引き受けること
当事者意識とは、ある物事の結果を「これは自分の責任だ」と引き受ける気持ちのことです。
もっと簡単に言えば、「これは自分の問題だ」と思えることです。仕事で問題が起きたときに、「自分には関係ない」と考えるのではなく、「自分にも責任がある」と考える。誰かに言われたから動くのではなく、自分のこととして考えて行動する。
一般的に「当事者意識が高い」と言うときは、このような状態を指しています。最近では、これを「オーナーシップ」と表現する会社も増えています。行動指針や人材育成の方針に「オーナーシップを持つ」と掲げている会社もあります。
仕事に対して「自分のこととして考え、責任を持って動く」という意味では、当事者意識とオーナーシップはかなり近い言葉です。
「オーナーシップ」は、責任を持つという意味だけではない
ただし、「オーナーシップ」という言葉を考えるとき、一つ重要な点があります。英語のownershipは、もともと「所有すること」を意味します。
たとえば、自分の家を持っているとします。その家なら、自分で住むことができます。人に貸して、家賃を得ることもできます。そして、必要がなくなれば、売ることもできます。
つまり、所有するということは、そのものを自分で扱い、その結果を引き受けるだけではなく、「どうするか」を自分で決められることでもあります。日本の民法206条でも、所有権には、その物を使うこと、そこから利益を得ること、そして処分することが含まれるとされています。
ここで大事なのは、最後の「処分できる」という部分です。簡単に言えば、「このまま使う」「やり方を変える」「もうやめる」といった選択を、自分で決められるということです。
ところが、オーナーシップがビジネス用語として使われるようになると、この「自分で決める」という部分が抜け落ちることがあります。「自分の仕事として責任を持つ」という意味だけが残り、「どうするかを自分で選べる」という意味が薄れてしまったのです。
すると、オーナーシップは「自分で決めること」ではなく、「責任感を持つこと」という心構えの話になってしまいます。言い方を変えれば、「結果に責任を持つ」と言うほうが適切でしょう。ここに、現在の「当事者意識」という言葉が抱えている問題があります。
「当事者意識は高いほどいい」は、本当に正しいのか
当事者意識について語るとき、私たちはいくつかの前提を置いています。
一つ目は、当事者意識は人によって高い・低いがある、ということです。「あの人は当事者意識が高い」「あの人には当事者意識がない」というように、その人自身の性質として語られます。
二つ目は、当事者意識は研修や声かけによって高められる、ということです。だから企業では、研修を行ったり、上司が「もっと自分ごととして考えて」と伝えたり、行動指針に「オーナーシップを持つ」と書いたりします。
そして三つ目が、もっとも重要です。
当事者意識は、高ければ高いほど良いと考えられていることです。
しかし、本当にそうなのでしょうか。自分で何も決められない人に、「もっと当事者意識を持て」と求めることに意味はあるのでしょうか。あるいは、何でも自分の責任だと考える人ほど、本当に組織にとって良い働きをするのでしょうか。
なぜ社員は会社に意見を言っても意味がないと思うのか
会社に不満があったとき、社員が取れる行動は、大きく二つあります。会社を辞めるか、会社に残って意見を言うか。
経済学者のアルバート・O・ハーシュマンは、組織に不満を持ったとき、人には大きく二つの選択肢があると考えました。その組織を離れるか、残って意見を言うかです。
1970年の著書『離脱・発言・忠誠』で、ハーシュマンは前者を「離脱(Exit)」、後者を「発言(Voice)」と呼びました。会社でも学校でも国家でも、組織に問題が起きたとき、人は「離れる」か「残って声を上げる」かのどちらかを選ぶ、という考え方です。
「辞めることができる人」の意見は、なぜ重くなるのか
アルバート・O・ハーシュマンが指摘したのは、単に「意見を言えるかどうか」ではありません。大事なのは、その人が「嫌なら辞める」という選択肢を持っているかどうかです。
たとえば、会社に対して強く異議を唱えた社員がいたとします。会社から見て、「この人は、会社の対応が変わらなければ辞めるかもしれない」と思えるなら、その意見を簡単には無視できません。
反対に、「この人は、何を言っても辞めないだろう」と思われていれば、意見を後回しにしても大きな問題にはならないと考えられてしまいます。つまり、「辞める」という選択肢を持っていることが、残って意見を言う力にもつながるのです。
ところが、日本では会社を辞めることに大きなリスクがあります。
パーソル総合研究所の「グローバル就業実態・成長意識調査」によると、転職して年収が下がった人の割合は、日本が33.7%で18の国・地域の中でもっとも高くなっています。一方、転職して年収が上がった人の割合は41.1%で、日本がもっとも低い数字でした。
つまり、日本では「会社を辞めて別の会社に移る」ことが、必ずしも簡単な選択ではありません。特に、長く同じ会社で働いてきた人ほど、その会社で身につけた経験や人間関係を失うことへの不安があります。

そうなると、会社に不満があっても簡単には辞められません。そして、辞められない人は、会社から見ても「どうせ辞めない人」になりやすい。その結果、問題に気づいている人ほど、会社に意見を言いにくくなります。
「言っても会社は変わらない。でも、辞めることもできない」
この状態が続けば、社員は次第に意見を言わなくなります。
「辞めない」のと「会社に忠誠がある」のは違う
ここで、もう一つ重要なデータがあります。
上記のパーソル総合研究所の調査では、「今の勤め先で、これからも働き続けたい」と答えた人の割合が、日本では56.0%でした。18の国・地域の中でもっとも低い数字です。一方で、「別の会社に転職したい」は25.9%、「会社を辞めて独立・起業したい」は20.0%でした。
つまり日本では、「今の会社にずっといたい」という人が少ない一方で、「では辞めよう」という人も多くありません。この状態を、単純に「忠誠心が高い」と考えることはできません。

会社に愛着があって残っている人もいるでしょう。しかし、辞めることへの不安やリスクが大きく、仕方なく残っている人もいます。ハーシュマンがいう「忠誠」は、組織への愛着があるからこそ、すぐに離脱せず、発言によって組織を良くしようとする状態です。
ところが、離脱することも難しく、発言しても状況が変わらないのであれば、そこにあるのは忠誠ではありません。「辞めないから忠誠心がある」とは限らないのです。
「言ったもん負け」になる会社では、誰も意見を言わなくなる
日本の職場には、「言ったもん負け」という言葉があります。会議で問題を指摘したら、その人が対策を任される。改善案を出したら、そのまま実行担当にされる。「ここを変えたほうがいい」と言ったら、「では、あなたがやってください」と仕事が増える。
これが繰り返されれば、社員は学習します。問題を見つけても、言わないほうが得だ。
これは社員の意識が低いからではありません。「意見を言うこと」と「その後の責任を引き受けること」が、セットになっているからです。
本来なら、問題を指摘する人と、その問題を解決する人は別でも構いません。ところが、「言った人がやる」という運用が続けば、発言すること自体がリスクになります。
すると、社員は黙ります。会社に不満がないからではありません。問題が見えていないからでもありません。言っても自分が損をするから、言わなくなるのです。こうして、組織から少しずつ「発言」が消えていきます。
組織はなぜ、仕組みではなく標語を配りたがるのか
ここまで読んで、「会社は、社員に本当のことを言ってほしくないのではないか」と思った方もいるかもしれません。
しかし、必ずしもそうではありません。経営陣が意図的に社員の意見を封じている、と考えるだけでは、この問題の本質は見えてきません。もっと現実的な理由があります。
社員の意見を本当に組織に反映させるには、手間も時間もかかるからです。
たとえば、社員から「このやり方は現場に合っていない」という意見が出たとします。その意見を本当に生かすなら、まず誰がその問題を判断するのかを決めなければなりません。どこまで現場で変更してよいのか、上司の承認が必要なのはどこからなのかも決める必要があります。
さらに、出された意見に対して「採用するのか、しないのか」を会社が返事をしなければなりません。採用して方針を変えたのであれば、「なぜ変えたのか」も説明する必要があります。
つまり、社員の意見を本当に受け止めるには、権限の範囲や意思決定の仕組みそのものを見直す必要があります。これは簡単なことではありません。
一方で、「もっと当事者意識を持とう」と呼びかけるだけなら簡単です。会議で言うだけでもいい。研修で伝えることもできます。行動指針に「オーナーシップを持つ」と書くこともできます。制度を変える必要もありません。
だから、組織は無意識のうちに、後者を選びやすくなります。社員の意見を生かす仕組みを作るには手間がかかる。でも、「当事者意識を持て」と言うだけなら簡単です。
その結果、社員には「もっと責任を持ってほしい」と求める一方で、その責任を果たすための権限は上司が持ったまま、という状態が生まれます。「自分で考えてほしい」と言われる。でも、重要なことは自分では決められない。「結果に責任を持ってほしい」と言われる。でも、その結果を左右する方針や予算は決められない。
これが、責任は渡されるのに、決める権限は渡されないという状態です。そして、このねじれこそが、「当事者意識を持て」という言葉が、主体性ではなく服従につながってしまう理由なのです。
「当事者意識を持て」が、なぜ服従に変わっていくのか
ここまで見てきたのは、社員が「意見を言わなくなる」までの仕組みです。では、その状態が長く続くと、人の中では何が起きるのでしょうか。
最初は「改善点を指摘しよう」、「問題を上申しよう」と感じていたはずが、次第に「言っても仕方がない」と感じるようになり、その後「黙っているほうがいい」と考えるようになる。さらに進むと、黙っていることを「大人の対応」「協調性」として受け入れるようになる。ここには、単なるあきらめではない変化があります。
「言わない人」は、はじめからそういう人だったのか
ある部署に、めったに意見を言わない人がいるとします。会議では静かにうなずき、決まったことは丁寧にこなす。周囲からは「おとなしい人」と見られています。
では、その人は、もともとおとなしい性格だったのでしょうか。それとも、何度か意見を言ってみたものの、何も変わらなかった。その経験を重ねた結果、言わなくなったのでしょうか。
この違いは重要です。
19世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェは、1887年の『道徳の系譜』で、人の価値観や道徳がどのように生まれるのかを考えました。ニーチェが注目したのは、人の考え方は、その人の性格だけで決まるわけではない。その人が置かれた環境によっても変わるということです。
ニーチェは人が置かれた環境のことを、「運命」と呼び、この運命は、その人の努力次第では、変えることができないと論じました。人はそれぞれ、自分でどうしようもない運命を背負っているのであり、その運命を変えることはできないのだから、つべこべ言わずに、黙って自分の運命を引き受けようと読者に呼びかけたのです。
自分の運命を引き受けるとはどういうことでしょうか?それは、運命を受け入れて、ただ何もしないということではありません。その運命を理解し、そこから派生する責任を引き受け、結果も甘受することが大事です。努力しながらも、運命に逆らわない精神を、ニーチェは騎士道精神と言いました。騎士道精神にしっかりと主体性が残されていることに注意しましょう。
一方、騎士道精神に対して、奴隷精神があります。これを奴隷道徳と呼んだりもします。ニーチェによれば、奴隷精神とは、自分では何もせずに、リスクも取らず、ただ騎士たちを嫉妬している精神のことです。ちょうど、「言ったもん負け」の文化になっている企業の社員の精神こそ、自分では何もせずに、誰かの失敗を誇張し、その人の転落を喜ぶ奴隷精神になってはいないでしょうか?
自分の力で反発したり、状況を変えたりできない立場に長く置かれると、人は別の方法で折り合いをつけようとします。
たとえば、本当は反発したい。でも、反発しても何も変わらない。そうすると、「我慢することは立派なことだ」「相手に合わせるのは大人の対応だ」と、自分の中で意味づけを変えていくことがあります。
ニーチェは、こうした価値観の生まれ方を「奴隷道徳」という考え方で説明しました。ここで大事なのは、これは「その人が弱いから」という話ではないということです。同じような環境に長く置かれれば、誰でも似たような考え方を身につける可能性があります。
黙っていることが、いつのまにか「美徳」になる
この考え方を職場に当てはめてみましょう。
意見を言っても何も変わらない。そんな経験を何度もすると、最初は不満を感じていた人でも、少しずつ言葉が変わっていきます。
「まあ、言っても仕方ないですよ」
「上も大変なんでしょう」
「そこは大人の対応をしないと」
「組織なんて、そんなものですよ」
最初は、あきらめの言葉だったはずです。ところが、いつのまにか「黙っていること」に価値を感じるようになることがあります。
言わずに我慢することを「協調性」と考える。上司に合わせることを「大人の対応」と考える。不満を飲み込むことを「組織のため」と考える。
つまり、外から押しつけられた沈黙が、自分から選んだ美徳に変わっていくのです。ここまで来ると、組織は「社員を黙らせる」必要すらなくなります。社員自身が、「黙っているほうがいい」と考えるようになるからです。
そして、ここで「当事者意識」という言葉が使われます。
「会社のことを自分のこととして考えよう」
「もっと当事者意識を持とう」
一見すると、社員の主体性を高める言葉です。しかし、決める権限がないまま責任だけを求められているのであれば、その言葉は別の働きをします。当事者意識は、権限と一緒に渡されれば主体性になります。権限なしで渡されれば、服従になってしまいます。
「いつか変えよう」と言われると、社員は今の問題を諦めてしまう
私たちは、階層別研修や1on1(一対一の面談)の設計をお手伝いするなかで、管理職と部下の会話に立ち会う機会が何度もありました。
そこで、繰り返し聞く言葉があります。部下が会社の問題について不満を話したとき、管理職がこう返すのです。
「この会社で偉くなって、大きく変えていこう」
この言葉に、悪意があるとは限りません。むしろ、部下の問題意識を否定せず、「自分たちで会社を良くしていこう」と励ましているのでしょう。言われた部下も、その場では「分かってもらえた」と感じるかもしれません。しかし、この言葉には、いくつかの問題があります。
一つ目は、「今は我慢しよう」という意味になってしまうことです。
問題があることは認めてもらえた。でも、それを変えるのは「今」ではありません。「偉くなったら変えよう」と、未来に先送りされます。
二つ目は、「会社を変えたければ、まず偉くならなければならない」というメッセージになることです。つまり、意見を言うことと、役職に就くことが結びついてしまいます。
「今の自分には変える力がない。だから、今は黙っておこう」そんな受け止め方にもつながります。また部下のキャリア設計を含意していると読むこともできます。
三つ目は、上司が部下の不満を否定せず、共感してしまうことです。これが、意外に大きなポイントです。もし上司が「そんなことを言うな」と否定すれば、部下には不満が残ります。
「なぜ分かってくれないのか」という気持ちが残るので、また別の機会に意見を言うかもしれません。ところが、「分かる。いつか一緒に変えていこう」と言われると、不満は受け止めてもらえたように感じます。
その結果、問題そのものが解決していなくても、「自分は会社を変える側の人間なのだ」と思えるようになります。本来なら、「今、変えられない」という不満が残るはずでした。それが、「いつか変えるために、今は頑張ろう」という話に置き換わってしまうのです。
ここに、ニーチェが考えた「価値観のすり替え」と似た構造があります。
できないことを我慢する状態が、「将来のために我慢している」という美徳に変わっていくのです。しかも、「偉くなって変えよう」という言葉には、もう一つ大きな問題があります。
そもそも、誰もが管理職になりたいわけではありません。
パーソル総合研究所の調査では、日本で「管理職になりたい」と考えている人は19.8%でした。18の国・地域の平均は58.6%で、日本は最も低い水準です。つまり、「偉くなって会社を変えよう」という誘いは、そもそも多くの人にとって魅力的な選択肢ではありません。
それでも、「いつか偉くなれば変えられる」と言われる。すると、今の立場で意見を通す道ではなく、「いつか上の立場に行く」という道だけが示されます。これは、社員の発言を増やすこととは逆の結果を生みます。
発言をなかったことにするのに、否定する必要はありません。共感して、先送りする。それだけでも、人は黙るようになります。
当事者意識の高い人ほど、なぜ先に潰れてしまうのか
ここで、ニーチェの同じ本から、別の議論を一つ紹介します。
『道徳の系譜』の第二論文で、彼は言葉の由来をたどっています。ドイツ語で、道徳的な「負い目」を意味するSchuld(シュルト)という語は、お金の「借金」を意味するSchulden(シュルデン)と、同じ根っこを持っています。ここからニーチェは、「責任」という感覚そのものが、もともとはお金を貸す側と借りる側の関係から生まれたものだ、と論じました。
この見方を借りるなら、当事者意識を配るという行為は、借金を配ることに近い、と言えます。
つまり、管理職はお金を貸した側であり、社員はお金を借りる側になります。
問題は、社員に借金を返す手段があるかどうかです。物事を動かせる権限、つまり借金でいえば「返すための手段」を渡さないまま、借金だけを配ってしまえば、受け取った側は、永久に返せません。
ニーチェは、外に出せなくなった力が、行き場を失って自分の内側へ向きを変える、という現象を指摘しました。攻撃する相手のいない攻撃性は、最後には自分自身へと向かいます。責任だけを負わされて、それを動かす力を持たない人が、やがて「自分の力不足だ」「もっと早く言えばよかった」と自分を責めはじめるのは、まさにこの仕組みで説明がつきます。
当事者意識が高いと評価されていた人ほど、先に消耗して潰れてしまう。多くの職場で見られるこの現象は、その人が弱いからではありません。負わされた責任の大きさと、与えられた権限の小ささ。その差が大きすぎるからです。
権限を「渡す」とは、具体的に何を渡すことなのか
「社員に権限を渡しましょう」と言っても、いきなり大きな決定権を渡す必要はありません。大切なのは、自分の仕事について、自分で決められる範囲を持たせることです。では、具体的に何を渡せばいいのでしょうか。
そのヒントは、意外にも江戸時代の百姓一揆に残された文書から見えてきます。
意見を言えるだけでは足りない。「返事がある」ことが重要
江戸時代の百姓一揆では、「傘連判状(からかされんぱんじょう)」と呼ばれる文書が使われることがありました。要求を書いた紙の下に、参加者が名前を書く。ただし、名前を横一列に並べるのではなく、円を描くように並べます。理由は単純です。
名前を一列に並べれば、最初に名前を書いた人が誰なのか分かります。円形にすれば、誰が言い出したのか分かりにくくなります。つまり、誰か一人に責任が集中しないようにする工夫です。
今の会社にも、匿名アンケートや目安箱があります。名前を隠すことで、社員が意見を言いやすくする仕組みです。ただ、ここには大きな違いがあります。百姓一揆の連判状には、要求を受け取る相手がいました。そして、要求に対して「応じる」のか「拒む」のかという返事がありました。
一方、会社の目安箱では、意見を入れて終わりになっていることがあります。意見を言いやすくするだけでは、十分ではありません。大切なのは、その意見に対して会社が返事をすることです。
「採用します」
「今回は採用しません」
「ここは変更します」
「この理由で変更しません」
こうした返事があるからこそ、社員は「自分の意見には意味がある」と感じられます。では、社員に本当に渡すべきものとは何でしょうか。ここでは、四つに分けて考えてみます。
①「これはやらない」と自分で決められる範囲を渡す
「権限を渡す」と言っても、すべての決定権を部下に渡す必要はありません。そもそも、管理職自身がそこまでの権限を持っていない場合もあります。それでも、「ここまでは自分で決めていい」という範囲を渡すことはできます。
たとえば、
「この案件は受けない」
「この納期では引き受けない」
「この機能は追加しない」
といった判断です。
重要なのは、その人が自分の判断で「やらない」と言えることです。何でも上司に確認しなければならない状態では、自分で考えても最後は上司の判断になります。一方で、「ここまでは自分で断っていい」と決まっていれば、その範囲では自分で考えて決められます。
小さくても、自分で決められる範囲がある。それだけで、仕事に対する責任の持ち方は変わってきます。
②「自分の意見で会社が変わった」と分かるようにする
現場の意見を受けて会社の方針が変わったら、その事実を記録に残します。単に「方針を変更しました」と伝えるだけではありません。「現場からこういう意見が出たので、この部分を変更した」と、何がきっかけだったのかまで残します。
これは手間のかかる作業です。しかし、一度「言っても何も変わらない」と思った人に、「これからは意見を聞きます」と言うだけでは、なかなか信じてもらえません。
消費者庁が2024年に公表した「内部通報に関する意識調査(就労者1万人アンケート)」でも、興味深い結果が出ています。
勤め先で重大な法令違反を知っても「絶対に相談・通報しない」と答えた人のうち、およそ8割は、ルールが変更されても「やはり通報しない」と答えています。つまり、制度を作り直すだけでは、一度失った「言っても無駄」という感覚は簡単には消えません。必要なのは、「言ったら、本当に変わった」という経験と実績です。
だからこそ、意見を受けて何が変わったのかを、本人にも周囲にも分かる形で残しておき、周知徹底する必要があります。
③「この仕事から降りてもいい」という選択肢を渡す
もう一つ重要なのが、「降りる自由」です。たとえば、プロジェクトから抜けたいと申し出たことが、評価を下げる理由にならないようにする。異動を希望したことが、上司との関係を悪くする材料にならないようにする。
つまり、「嫌なら別の選択肢を選んでもいい」と認めることです。これは、ここまで見てきたハーシュマンの話にもつながります。会社を辞める選択肢がある人の意見は、会社から見ても無視しにくくなります。同じように、組織の中でも「この仕事から離れることができる」という選択肢があれば、その人は無理に黙る必要がなくなります。
降りる自由は、甘やかしではありません。「嫌なら離れられる」という選択肢があるからこそ、残っている人も本音を言いやすくなるのです。
④ 問題を指摘した人に、後始末まで押しつけない
最後は、「言ったもん負け」をなくすことです。会議で問題を指摘した人が、そのまま対策の担当者にされる。これが続けば、社員は学習します。
「余計なことを言うと、自分の仕事が増える」
そう思えば、問題に気づいていても黙るようになります。
だから、問題を指摘する人と、その問題を解決する人を分けます。問題を見つけた人に、「では、あなたが対応してください」とすぐ任せない。まずは問題として受け止め、誰が対応するのかは別に決める。
これは、大きな制度変更をしなくてもできます。たとえば、自分が進行する会議の中で、「問題を指摘した人に、そのまま担当を押しつけない」と決めるだけでもいいです。
社員が安心して問題を口にできる環境を作るには、こうした小さな仕組みが重要です。結局、「権限を渡す」とは、大きな決定権を丸ごと渡すことではありません。自分で断れる範囲を渡す。意見によって変わったことを見えるようにする。降りる選択肢を認める。問題を指摘した人に後始末を押しつけない。
こうした小さな「自分で決められること」を増やしていく。それが、責任だけではなく、本当の意味で当事者意識を持ってもらうための条件です。
測るべきなのは、意識の高さではなく、意見が通った回数です
ここまでの話を、たった一つの数字にまとめます。
直近の1年で、現場の反対によって撤回、または修正された方針は、いくつありましたか。
もしゼロなら、その組織には、意見が通る道すじが存在していない、ということです。標語をどれだけ配っていても、行動指針に何と書いてあっても、関係ありません。
この問いは、エンゲージメントサーベイ(社員の満足度・意欲を測る調査)の読み方も変えてくれます。スコアの低い部署は、意識の低い人が集まった部署ではありません。意見が通らない構造が、より濃く出ている部署なのです。社員の意識を測るのをやめて、意見が通った回数を数えてください。サーベイは、人の良し悪しを測る道具ではなく、仕組みのどこが詰まっているかを見つける道具として使うほうが、ずっと役に立ちます。
しかし、この数字を、目標にしてはいけません。「今期は撤回3件」といったノルマにしたとたん、形だけの撤回が量産されるからです。数えるべきなのは、撤回そのものの件数ではありません。その撤回の理由が、発言した本人にきちんと返されたかどうか。
そして、ここが大切なところです。
意見が上がってくる仕組みは、現場を喜ばせるために作るものではありません。考えてみてください。問題が出そろった状態で優先順位をつけて決めるのと、決める側が知っている問題だけで決めるのと、どちらが良い判断につながるでしょうか。答えは、考えるまでもないはずです。
もちろん、耳の痛い話が上がってくれば、決める側にはストレスがかかります。それでも、想定もしていなかった問題が、あるとき突然、表に噴き出してくるよりは、はるかにましです。
意見が上がってくる仕組みは、現場のためというより、じつは決める人自身のために要るものなのです。
当事者意識を高めるために、会社の仕組みをどう変えるのか
ここまで、当事者意識だけを求めても、社員の主体性は生まれないことを見てきました。では、実際に会社の仕組みをどう変えればいいのでしょうか。大きな制度改革から始める必要はありません。
管理職研修、1on1、管理職の評価、経営会議。すでにある仕組みの中に、「社員が自分で決められる範囲を増やす」という考え方を入れていけばいいのです。
管理職研修では、「対話の方法」だけではなく「渡せる権限」を考える
管理職研修では、扱うテーマを変えます。「部下の当事者意識を引き出す対話のコツ」を学ぶだけではなく、「自分は部下に何を任せられるのか」を洗い出します。
たとえば、
- どこまで自分で決めていいのか
- 何なら上司の確認なしで進めていいのか
- 何なら断っていいのか
を具体的に書き出します。研修の最後に残す成果物も、対話のスキルだけではありません。「部下に渡せる権限の一覧表」を残します。
1on1では、「どう感じたか」より「どこまで自分で決められるか」を聞く
1on1で聞く質問も変えます。
「最近どう感じていますか」
「仕事で困っていることはありますか」
といった質問だけではなく、
「あなたは、どこまで自分で決めていいと思っていますか」
と聞いてみます。
ここで、上司と部下の認識がずれていることがあります。上司は「そこは任せている」と思っているのに、部下は「全部確認しないといけない」と思っている。
逆に、部下は自分で決めていいと思っているのに、上司は「そこまで任せたつもりはない」と考えている。こうしたズレが見つかったら、その場で確認します。
誰が、どこまで決めていいのかを、言葉にして確認する。それだけでも、権限の曖昧さはかなり減らせます。
管理職の評価に、「部下の意見で判断を変えたか」を入れる
管理職の評価項目にも、一つ追加できます。「部下の意見によって、自分の判断を変えた回数」です。この数字がゼロだった場合、「判断が完璧だった」と考えるのは危険です。
そもそも部下から意見が上がってきていない可能性があるからです。もちろん、回数だけで管理職を評価する必要はありません。重要なのは、管理職が部下の意見を受け止め、自分の判断を変えることも仕事の一つだと認識することです。
経営会議では、「現場の意見で何が変わったか」を記録する
経営会議では、現場の意見を受けて方針が変わった案件を記録します。「何が変わったのか」だけではありません。「どんな現場の意見がきっかけだったのか」まで残します。
そして、四半期ごとに振り返ります。「この3か月で、現場の意見を受けて何を変えたか」「逆に、意見を受けても変えなかったものは何か」これを確認するのです。
こうした記録が残れば、社員から見ても、「言えば会社が動くことがある」と分かります。
「当事者意識を持て」と言う前に、まず決める権限を渡す
当事者意識という言葉そのものを捨てる必要はありません。問題なのは、順番です。「もっと当事者意識を持ってほしい」と言ってから、権限を考えるのではありません。
先に、
「ここまでは自分で決めていい」
「これは自分で断っていい」
「意見を言っても、仕事を押しつけられない」
という環境をつくる。
そのうえで責任を渡す。そうすれば、「自分の仕事だから、自分で考えて決めよう」という意識は、あとから自然に生まれてきます。当事者意識を求める前に、当事者として動ける環境をつくる。それが、社員の主体性を引き出すために、会社が先にやるべきことなのです。

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まとめ
「当事者意識を持て」と社員に求めるだけでは、主体性は生まれません。自分で決める権限がないまま責任だけを渡されれば、社員は「言っても仕方がない」と考え、やがて黙って指示に従うようになります。
重要なのは、意識を高めることではなく、まず当事者として動ける環境をつくることです。自分で断れる範囲を決める、意見によって変わったことを記録する、仕事から降りる自由を認める、問題を指摘した人に後始末を押しつけない。
こうした仕組みによって、責任と権限をセットで渡すことが必要です。当事者意識は、求めるものではなく、権限を渡したあとに自然と生まれるものなのです。
ニーチェは、奴隷精神を軽蔑し、「それは結局、保身でしかない」と見抜きました。騎士道精神を持ったからと言って、自分の運命から逃れられるわけではありません。むしろ騎士は、自分の運命を引き受けて、壮烈な死を遂げることもよくあるのです。ニーチェ自身、死を恐れない騎士道精神こそ、高貴な精神だと説きました。
騎士道精神を取ったからといって、何か利益があるわけではありません。ただし、自分の人生を主体的に生きることができます。そうです。騎士と奴隷の違いは、主体性があるかどうかだけです。ニーチェの哲学からは、主体性を生きることこそ、人生を燃焼させる唯一の道であることがわかります。日本の会社経営にも、言えることではないでしょうか?





